6,434人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災。
1995年1月17日は東京にいました。
前日まで高校の友人たちとニセコ・北海道でスキーをしていたのです。
さあ、そろそろ尼崎の寮まで帰ろう、そう思っていた矢先のテレビニュース。
「名古屋方面で大きな地震があったもようです」NHKのニュースはそう報じていました。
あーそうなのか?
新幹線動くかなぁ?
新幹線が全く動いていない。
(このときに新幹線の橋脚が落ちていることは全く分からなかった)
どうやって帰ろう?
寮の管理人さんに電話をする。
なかなか通じない電話がやっと通じる。
「大変なことになっているよ、早く帰ってきてほしい。」
「はい、帰ります。」
帰らなきゃ。
でもどうやって。
そうだ、飛行機で帰ろう。
笹塚駅前の京王観光に飛び込む。
「大阪まで飛行機の切符を買いたいんです」
「用紙に書いてください」
(とっても事務的に回答してくれた)
「いいから、大阪までの切符さがして!すぐ帰らないといけないんだ!!」
「はい!」
「一枚だけ、あります」
「じゃ、それお願いします!!」
やっと取れた、大阪・伊丹空港までのチケット。
これで、帰れる。
何か、被災地に必要なものがあるのか?
東京のニュースを見ていても現地の事情が全く分からない。
現地はどうなっているのか?
本当に必要なものはなに?
東京に一極集中するメディア。
伝わってこない現地情報。
今ほどネットが発達していないあの時。
すっかり、阪神間の情報は空白となってしまった。
新幹線もやられ、阪神高速も倒壊するような事態。
大都会でありながら、もう、そこは孤島状態だった。
何も確証の持てる情報がないまま、帰ることのみ決断せざるを得ない。
結局、カラダひとつで現地に戻るしかない。
そう思って飛行機に乗り込む。
TBSのクルーが同乗。
こんな時にマスメディアっていうのは。
正直その時にはそう思った。
もっと、今運ばないといけない人がいないのか?
医療関係者や政府の要人、現地を確認すべき人間が。
伊丹空港に降立つ。
伊丹市営バスが動いている。
阪急伊丹駅に着く。
駅が潰れている。
警察があったはずなのに。
すごい光景を生で見る。
どうやって寮まで帰ろう。
管理人さんに電話だ。
公衆電話を探す。
電話をするがつながらない。
やっと繋がる。
「阪急伊丹駅に着きました」
「よく戻って来れたね。迎えに行くよ」
すごい光景を横目に見ながら、寮に戻る。
寮は無事に建っていた。
寮の自分の部屋に帰ると、本だの中身が全て飛び出している。
知らずにここで寝ていたら、怪我はしていたな。
この都市型の大災害が残した教訓は大きい。
でも、その教訓はどこまで生かされているのか?